SELMERの物語

フランスのパリ北東にある小さな町、ラオンにはフレデリック・セルマーの家族が住んでいました。この家族には16人もの子どもがいて、フレデリックは有名な陸軍楽団の指揮者でした。彼はクラリネットの名門校・パリ音楽院を卒業し、特別な栄誉である「名誉賞(プリーズ・ドヌール)」を受賞しています。彼はまた、クラリネット教師であり、ベーム式の可動リング・システムをクラリネットに導入した人物、ヤサント・クローズのお気に入りの弟子だったとも言われています。

フレデリックの息子たちの中には、アンリ、アレクサンドル、シャルルという三人の息子がおり、いずれも当時パリ音楽院で学んでいました。父フレデリックは階下の書斎で音楽の編曲に精を出しており、一方で息子たちは階上の各部屋で練習に励んでいました。父は一度の間違いには黙っていましたが、同じ間違いを繰り返すと、すぐに階下から鋭い叱責が飛んできたといいます。

いずれの息子たちも音楽院を卒業し、それぞれの卒業年に首席で賞を獲得しました。アンリとアレクサンドルはクラリネット、シャルルはフルートでの受賞です。

1852年、フレデリック・セルマーが音楽院を卒業し名誉賞を受けた際、彼は木製のベーム式クラリネットと純銀のキィがついた初期モデルの一本を贈呈されました。このクラリネットは今でもパリのセルマー家の家宝として保管されています。

アンリ・セルマーは1858年に生まれ、1941年に亡くなりました。彼はパリ・オペラ座管弦楽団、共和国親衛隊バンド、ラモー交響楽団の首席クラリネット奏者を務めました。オペラ座の指揮者が独奏時に立って演奏するよう命じたため、彼はそのバンドを退団したという逸話があります。アンリは鼻が大きく、立って演奏するとその鼻が動いて見える気がして恥ずかしかったそうです。

彼は余暇に有名ブランドのクラリネットを調整・販売したり、クラリネットリードの製造を始めたりしていました。また、クラリネットのマウスピースのフェイシングにも長時間取り組んでおり、特にクリスタル製マウスピースの製作のために視力を失った片目をその作業のせいにしていました。

彼が雇っていたリード製造機の技師は腕は良いものの、酒好きで以前は有名メーカーをクビになっていた人物でした。ある日、その技師が「空き時間にクラリネットを1〜2本作ってもいいか?」と尋ね、アンリが許可しました。

その試作品はかなり良い出来で、アンリ自身が使用するようになります。その後、ボストン交響楽団の首席クラリネット奏者となっていた弟のアレクサンドルがパリに戻り、それを試奏して非常に気に入り、自分用に1セット作ってくれと頼んだのです。こうして「セルマー」ブランドの楽器製造が始まったのでした。

アンリは非常にユーモアに富んだ人物でした。彼は物語を語るのが大好きで、優れたパントマイムの腕前もありました。姿勢正しく、立派な口ひげに小さな顎を備えた彼の風貌は、まさにフランス軍人そのものでした。彼は音楽家との65年に及ぶ交流を通じて、非常に広範な人脈を築いていました。

彼は子どもを非常に愛しており、夏の休暇には10人以上の孫を連れて出かけることもありました。アンリの有名な逸話のひとつに、オペラ座のヴァイオリニストが重要なパッセージを演奏するたびに立ち上がる癖があり、仲間が彼のヴァイオリン内部に匂いの強いチーズを忍ばせたというものがあります。本番の暑さのなか、立ち上がった瞬間にチーズの悪臭が立ち込め、結末は読者の想像にお任せします。

1945年、あるアメリカ赤十字の将校がパリのセルマー社を訪れ、「アンリがクラリネットを試奏し、マウスピースを調整していた部屋を見せてほしい」と依頼しました。案内されたその部屋で、彼は帽子を脱いで敬意を表しました。「帽子を取らなくてもいいですよ」と言われても、「とてもそれどころじゃない」と答えたというエピソードも残っています。

アレクサンドル・セルマーは「連隊の子」としてアルジェリアのテントの中でクラリネットを学んだこともありました。父親が亡くなり、母親は多くの子どもを養うために苦労していました。17歳のとき、彼は葦(リード)を買いにフルニエ氏のもとを訪れました。フルニエは機械を使ってリードを製造した最初の人物といわれています。彼の演奏を聞いたフルニエ氏は、著名な指揮者ラモー氏に彼を紹介し、すぐにラモー管弦楽団の第三クラリネットおよびE♭クラリネットとして採用されました。後に彼はパリの名門・オペラ・コミック管弦楽団の首席奏者となります。

20世紀初頭、大西洋でフランス船ブルゴーニュ号が沈没し、ボストン交響楽団のメンバーが数名命を落としました。その中には優れたクラリネット奏者であり画家でもあったレオン・ポルトーも含まれていました。これを機にアレクサンドルはボストン交響楽団の首席に就任し、さらにシンシナティ交響楽団へ移籍。ここで彼はジョセフ・E・エリオットなど有能な弟子を育てました。

彼は技術的に極めて優れ、複雑なパッセージをさまざまな調性で自在に演奏できたといいます。ベーム式だけでなくアルバート式クラリネットにも習熟し、どちらの楽器でも同様に超絶技巧を披露することができました。

彼は非常に正直かつ率直な性格で、アメリカに「サヴォネット型(石けん型)」の平たいクラリネットケースやクリスタル製マウスピース、フランス式ショートレイのマウスピースを紹介した人物でもあります。

アメリカで数多くの音楽家に知られ、賞賛されたアレクサンドルは、1909年ごろニューヨークにある店舗でクラリネットの調律に不満を持ち、7本もの楽器を真っ二つに壊したという逸話もあります。

あるとき、著名なクラリネット奏者が試奏に訪れましたが、アレクサンドルは「あなたは音程が悪すぎる、新しいクラリネットではなく、もっと勉強が必要だ」と言い放ち、その人物には結局1本も販売されなかったという出来事もありました。

また、ある日ウィーンの名指揮者との演奏で、チャイコフスキーの「悲愴」交響曲のソロで「音が大きすぎる」と3度注意され、3回目には息を吹かずに指だけ動かしました。それでも「大きすぎる」と言われ、激怒して退団しかけたこともありました。最終的には指揮者と抱き合い、涙ながらに和解したそうです。

シンシナティ交響楽団での出来事がもとで退団し、ニューヨーク・フィルに入団。グスタフ・マーラーの下で演奏したのち、1910年に引退してパリに戻り、兄アンリを手伝いました。

ボストン交響楽団を去ったのは、ある裕福な女性がオーボエ奏者の教師をやめて彼の弟子になったことで、オーボエ奏者(兼人事担当)に疎まれたためともいわれています。

非常に厳格な人物に見えた彼も、親しくなると実に情に厚い人柄で、85歳で引退した現在でもアメリカの多くの友人たちから手紙が届くそうです。パリ近郊のセーヌ川沿い、シャトーという街で、彼は静かな晩年を過ごしています。料理に対しても音楽と同じく妥協を許さず、料理人とのトラブルもたびたびあったということです。